奥山陽一のコラム

2008/11/01

原点を考える

 
かなり長くなりそうな日記だけど・・・

先日日記に書いた稚内から勉強に通ってくれている子と話をしていると、自分の写真に向き合う始まりや今に至るまでの
事を振り返るようになった。

中学を卒業したら料理の世界に行きたいと思っていた。
親が泣くほどのどうしようも無いヤンチャ坊主だったけど、自分の生きる道は自分で切り開く!そういう気持ちは人一倍強かったかもしれない。

小学校5年生の時、親に土下座をして釣竿片手に一人旅を始めた。

目標は北海道一周。

その時の台詞を今でもはっきり覚えている。


「僕は好きで自営業の子供に生れたわけじゃない、友達は日曜日になれば親と色んな所に遊びに連れて行ってもらったりしているのに、うちはいつも日曜日は忙しいから遊びにも連れて行ってもらえないじゃないか。 だから僕は一人でも色んなものを見たり聞いたりしてみたいんだ。 もし何かあって死んでもそれが自分の運命なんだから諦めてよ・・・」

若干10歳か11歳の時の台詞だったと思う。

親は何も言わなかったが、その旅の始まりの最初の行き場所を、
斜里にするならと許可してくれた。
斜里には祖父母や親戚がいて、駅のすぐ近くに釣りの好きな従兄弟が住んでいることから電話でお願いをして夜行列車に乗せてくれた。
小学校の卒業文集にもその時の事を載せるくらいの大冒険だった事を思い出す。

それから毎年のようにあちこちに足を延ばし目標は達成できた。
この大冒険が自分の始まりだったような気がする。

目標を持つ事、その目標を達成する為に前に進む事。
それが夢を叶える事。
そう信じて生きてきた気がする。

話は戻って・・・料理人になりたいと言った時、せめて将来の為に高校位は出てくれと言われた。

その時の台詞は・・・
「高校に行きたくないからではなく、料理人になりたいからこそ
高校に行くより社会に出る事を考えたし、今の学校では将来の為になるような勉強は出来ないって思ってる」・・・だった。

その時の父親の台詞も覚えている。
「そうか・・・別に跡を継げとは言わないけど同じ写真の世界で
同じ土俵でお前と勝負してみたかったなあ・・・」

その一言はかなりきつかった。

三日間くらい寝れなかった。

とりあえず高校に行ってもう一度将来のことを考えることにした。(かなり前の日記にあるように試験当日途中で帰ってきちゃったけどねw」

そんなこんなでいよいよ決断の時がきた。

「三年考えたけどオヤジのレールを歩くのはやっぱり嫌だし、オヤジの経営のやり方では俺の時代には必ず無理がくると思う。
もし写真をやるなら自分で勉強させてもらいたい人を探したい」

こんな台詞を覚えている。

父親は「そうかあ・・・凄い先生が居るんだけどなあ、まあお前の気性じゃしょうがない、好きにすれば良いさ」と言ったのを覚えている。

それから毎日あちこちの写真館のウィンドーを見て歩いた。

そんな時モノクロの肖像画を飾っている写真館を見つけた。
良いとか悪いとかそんなものは解らないけど、とにかくカッコイイ!! これだけだった。

早々に父親に、「すげえカッコイイ写真を見つけたから一緒に来てくれ!」そう言ってその写真館に連れて行った。

そして言われた一言 「お前を預かってくれるのは此処だぞ」

それが自分の写真の原点 清水正之 との出会いだった。
自分18歳 清水65歳 親子より祖父と孫というような年の差だった。

それ以来、80歳で亡くなるその場その時までずっと追いかけ続け、技術より写真に向き合う姿勢や心根の部分や礼儀を教えてもらったような気がする。

型物の大切さ、写真を残す意味、写真だけではなく遊びも教わった。とにかく我侭な爺さんで豪快な人だった。

夜中の1時頃、気を使ってそろそろ帰りましょうかと言ったら、
馬鹿野郎夜はこれからだ!遊びが出来ん奴は写真も出来ん!と叱られたのは今でも語り草だ。

自分の写した写真の事に対してアドバイスしてくれるのも、ようやっと酔いがまわって初めて本音で話してくれる。
だから遊びの時にも気が抜けなかった。

日本の審査員になった時には普通の人が入れない審査会の席にも連れていってくれた。
一言も喋れず、清水の後ろで直立不動で一日中気をつけの姿勢で立っていた事を昨日のように思い出す。

もし清水にお前は写真に向かないから足を洗えと言われたら素直にハイと言えると思っていた。
米も買えない様な貧乏な時でも借金をしてでも着いて歩いた。

その分信用もしてくれた。

清水の作品を見せられながらお前の正直な意見を聞かせてくれないか?と言われた事があり、「周りの人は褒めていたけど、この光の調子は清水の調子とは少し違うと思います。」とビビリながら答えると、嬉しそうな顔で「そうだよなあ、誰も俺には本音を言ってくれないけど、お前は写真には正直な男だから聞いて良かったよ」と言われ嬉しく思う自分と老いていく人の寂しさを感じた。

清水が80の夏、一緒の部屋で酒を飲みながら写真について語り明かした。
清水に教わった事の全てを集約して、今自分が考える写真の光と影、その大切さ・・・生意気でも有りっ丈の自分の気持ちをぶつけた。

「お前の若さでそこまで考える事が出来るなんて、俺はもう思い残す事も無いし、いつ死んでも良いくらい嬉しいよ」・・・そう言いながらその部屋で永い眠りについた・・・

この時はさすがにショックで写真が写せなくなった。
モノクロも一年間暗室にすら入れなかったし、今も逃げ出したいくらいの葛藤がある。

でも、撮影に集中すると今でも清水の声がはっきりと聞こえてくる。
「女性の手は小さく写しなさい、頭の先から足の先まできちんと目配せしなさい、ライティングの繋がりは大丈夫かい?・・・」

もしこの出会いが無ければ今の自分は間違いなく存在していない。それより写真の世界にも存在しなかったと思っている。

人は皆、縁ですねというが、夢を叶えるのも自分なら、人の縁を築き上げるのも自分自身だと思っている。

話はえらく長くなってしまったけど、この数日撮影をしながら自問自答を繰り返している。

俺は弟子だのなんだのなんて持つ身分では無いし、持ちたいとも思わない。
でもこの頃見学したいとか勉強させてくれと言う話が多いのも確かだ。
先日も東京から給料は要らないから住み込みでも何でもいいから
勉強させてくれと電話があった。
今は義理がある稚内の子が来ていて、見学は良いが 一人にしか集中できない器の自分でしかないからと断った。

というより、何故か不思議と懐かしい匂いのするその子に不思議な何かを感じてならない気がして、今の自分の持っているものを伝える事で自分自身も素直な心で一緒に写真というものを見つめなおす事が出来るような気がするからなのだ。

でも同時にもしこんな自分に何かを感じてくれる人がいたとして、俺は何かを伝える事ができるのだろうか?
何を伝えるべきなのか?

俺の言葉は清水の教えから得たものでしかない。

稚内の子にしても、代々続いている老舗のお嬢さん。
ご両親をはじめ先人達が御苦労されながら築き上げてきた物を
否定する事は絶対に失礼な事であり、してはいけない事。

反面、写真と言う一枚の表現を考えれば、今のマイナスの要因は壊さなければそれ以上には絶対にならないのも確かな事。

他の子達は皆、男も女も関係の無い扱いの中で、親も承知の上で望んでいる事だし、勝手に寝泊りもさせてもらったり俺の方が世話にもなっていたりするし、スタジオも有る程度自由に触らせてもらっている。
会社の顧問やアドバイザーにという話もあったり、見届け人という話があったり・・・それなりの付き合いの中で俺というものを
放任してくれている部分が多い。

でも同じように先人達の築き上げてきたものを絶対に壊す事は出来ないし、先人達の思いも伝えていかなければならない。

そう考えると人に何かを伝える事の難しさや、自分の責任というものをあらためて考えさせられる。

明石家さんまの次に適当な男だけど、写真に関してだけはこんな風に考えてしまう今日この頃・・・
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